宗教依存は、「支配と依存」「褒章と恐怖」を軸として、しがみつき状態、離れたくとも離れられない拘束的な不自由感を伴う心理状態のことです。この「支配と依存」「褒章と恐怖」を基いとして、それを反映するいくつかの意識の態度が生まれてきます。ここではそれを「宗教依存の意識<10の兆候>」として述べていますので、読んで自分に当てはまると感じるところがあれば、宗教依存の疑いがあるといえます。自分自身の中に依存症となる心の種がありその傾向がある、また宗教団体側に依存症を引き出し、促進させる教義やシステム的な問題、風土があるといえます。

 

① 選民意識

選民意識とは、神や教祖との関係において、自分自身が特別に選ばれた人間であるという特別意識を持っていることを指します。このような素晴らしい教えにあずかることができる人間は選ばれた人間、選ばれた魂であると教団の中で教えられていたり、降霊や神託のようなもので告げられたことがあるのかもしれません。

そして、そのように教えられたり、告げられたりした信者は、そのような選ばれた魂である自分自身に誇りを持ち、他者に対して優位な感覚をもちます。その一つの表れが「霊的、魂のステージ」という発想や発言が多くなります。それは「自分は霊的・魂のステージが上位なものである」という考えを基いに持ち出す発言です。

また他者に対して優位な感覚を持っている自分が苦難や試練にあったとしたら、人の下手につくような目や態度を示したくないと思っています。そのような時の予防線に、「魂のステージが高いからこそ、今の苦難や試練が起こるのだ」と言って、その試練に耐えながらも自尊心が満たされている状態になります。

また、自分自身があたかも世界の命運や救済の鍵を握っているような妄想や空想の虜となり、自分の精神世界の中でのみ活躍し、その中でヒロイズム願望が満たされている状態になることがあります。空想の中で耽溺し、目の前の取り組まなければならないものを放置したり、事態が暗転する兆しがあっても見過ごしてしまいます。現実に根を張ってしっかりと取り組むことが小さなことのように思われてきて疎ましくなります。

 

② 特別意識からくる使命感

一般的に自分の人生の課題やテーマを抽出したり、苦難への対策や創造するべきことを自分で考え、自分でビジョンを描き、意思決定をして行動を始めることで人生の苦難を乗り越えようとしていくことは、自分の人生にしっかりと四つに組んで生きているといえます。

それとは違い、選民意識から出るエネルギーの具体的な注ぎ先、活動とは布教活動です。また教団もそのエネルギーを駆り立てて布教活動へ向かわすことをします。特別意識からくる使命感は神や教祖からの信任や選民意識から始める布教活動ですから、神仏の使徒としての使命感を持って布教活動をします。たいていは人類救済の使命に自らを賭けている自分自身に酔います。

布教はその人自身の心の平安やその人の家族関係や周辺が調和していてこそ、その人自身が自信をもって勧めることができるはずのものが、家族の不和を差し置いて働くことになります。その時に一人ではなく、同じ教団の仲間とともにいるという仲間意識や共同体感覚が、自身の苦しさや家族の不和を打ち消してしまい布教活動を後押しします。使命感をもって働いて神仏や教祖、教団の信任を得ようとします。

 

③ 盲目的な追従心

盲目的な追従心の反対である明晰な自律心は、時間的にも空間的にも自分の立ち位置がわかり、周囲の状況や因果関係をみとって、自分自身を調整・コントロールし、自分で判断して計画し行動することができるということです。

それに対して、盲目的な追従心とは、本来はそうできるにもかかわらず、その力を見失ってしまっている、または奪われた状態と言えるのでしょう。ではなぜ、見失い、奪われることになってしまうのでしょうか。簡単に要約すると「敬虔な信仰心」「神に対する依存心や服従する心」「教義で一杯になった知性」「全能の神に対して人間凡夫の人間観」「罰への恐怖心」等が、その力、人間力を育むことをなおざりにして使えなくさせているのが一因です。

教義で言われていることを何の検証もせず、咀嚼することもなく自身の考えとして自分の心に写し込み、教団の掲げるビジョンを自らのなすべきことのビジョンとして写し込んでしまいます。その結果、教団の描いた理想実現のためにまるで自動回路が働いているかのごとく、教団がそうせよというからそうする、教団の仲間がするからそのように行動するというようになっていきます。

日本人は元々周囲と協調して歩んでいれば安心するところがあるのですが、自分自身の本心として、自分が本当は何を望んでおり、どうしたいのかという心を見失ってしまう傾向があります。一旦立ち止まり、正直に自分の本心に耳を傾ける時をもつことが大切です。その時にその同伴をするのがカウンセリングなのです。

 

④ 視野狭窄的な意識

宗教団体を遍歴してきた方なら別ですが、多くは属している宗教団体の他に多くは知らないものです。新宗教に多いですが、自分の属する宗教団体の教義こそが絶対であり、至上至高のものである、だから他の宗教の教義などは関心をもつ必要はない、むしろそのようなものに近づくと毒され魔境に落ちる、地獄に落ちるなどと信じています。

少し冷静になって目を向ければ、自分の属する宗教の教義の体系や用語なども他の宗教で同じような意味づけをして用いていたり、逆に同じ意味で名称が多少違うだけ、といったものはいくらでも見つけることはできるものです。その宗教で救われた体験なども心理療法的に説明がつくものであっても、神に救われたと信じています。

また、その宗教の独自性を出すために、そこで行われる宗教行事のスタイルが違うことはもちろんですが、その宗教の立宗の経緯や教祖の動機など、またある日、神に召し出され神託を受ける、神懸かったことをきっかけとして宗教を興すエピソードなどは、内容の違いこそあれ、どこの宗教にもあるものです。そのエピソードが神秘的なものであればあるほど、それに魅せられて特別なものとして信じることになります。

要は多くの比較検証の中から選んだというよりは、何かのきっかけで、「これは凄い」「これこそ本当だ」と信じ込んで夢中になってしまう状態が視野狭窄的な意識だといえます。目を奪われ、耳を奪われ、心を奪われている状態です。目は教祖に釘付けとなり、その行方を追い、心を満たす言葉や教えを乞い願います。

奪われた目と耳と心を自らの内に取り戻さなければなりません。奪われている目と耳と心は外側のみを追いかけています。外側から内へと方向を転換することが大切です。内をみつめ、内なる声に耳を傾けることです。

 

⑤ 聖人願望

世界中の宗教には伝説上の聖人と言われる人達がいます。キリスト教では聖人、仏教では聖(ひじり)上人(上人)と言われる方など、世界中の宗教には聖人伝説、物語が多数あります。聖人と呼ばれる人々は、特定の宗教の中で宗教上の功績があり、その信徒・信者にとって模範となるような人格高潔な人物のことを指します。特定の宗教・宗派の中では教祖・開祖や高弟を始めとして崇拝・尊敬の対象となる過去の人物をさすことが多く、その生涯が記録されて後世に語り継がれます。様々な一般の人間とは違う生き方、言動などによって人々に感銘を与え、意識を変えていく生き方を示しています。

教義を学んだ信者・信徒の中には、そのような聖人、教祖や高弟の生き方に憧れ、自分自身もそのように生きたいと思うことがあります。そのような聖人の語り口や身振り手振りから真似て、自分の修行としている生き方もあります。しかしその核心は、その聖人の願う志などを自分自身のものとすることにあります。その為にその聖人の心の世界をを訪ねように真似るわけです。学びは真似びとも言われ、倣い真似ることから始まることを考えれば、あたかも聖人のごとく振る舞うのも修行の一つといえるかもしれません。

しかしその動機が「聖人として崇め奉られるその人のようになりたい」となると、これは核心を外してしまいます。志を果たすために共有することよりも認められることに比重を置いているからです。志を共有してもその表れ方は各人の個性であり、それぞれで良いものですが、依存症の人は自己肯定感が低いので志を共有するよりも、どう見られるかを気にし崇め奉られることによって自己肯定感を高めようとします。あたかもその聖人のごとく真似てみても、その動機が「そのような崇め奉られるその人になりたい」となると、高潔な人物を装ってみてもそれは結局、自分自身の中で二面性を持つものになり、仮面が一つ増えるに過ぎません。

 

⑥ 感激中毒

宗教教団の講話やセミナーまたは、信者・信徒の信仰体験など、様々に救われた体験談を聞くと感動的で涙が溢れてきたり、心が洗われたように感じる話を聞くことができます。苦しみの果てに光明を見出し、苦難の現実から救われたストーリーは同じような苦しみを経験してきたならば、その心情が想像できて感情移入されていきます。

それらの体験は、今後その信仰を続けていくための確信やモチベーションになります。自分自身にもそのような信仰体験ができるかもしれない、自分自身が変わることや現実が変わることへの期待を胸に教団の活動を続けます。ここでいう感激中毒とは、現実逃避の一つですが、あたかもテレビドラマや感動的な映画を見るのに熱中するように、行き詰まっている自分の信仰や行に対する熱意を取り戻させてくれる感動的体験談や講話のみを追いかけてしまうことを言います。

つまり、感動したい、感激したいという欲求が先にあって、そのために通うという状態です。他人の人生の体験談のみを沢山仕入れて話題にして話していて、自分が信仰している宗教の良さを人に語って同じように感動をしてもらうことで自分の自尊心が満たされるような状態です。しかし、自分自身の人生の中でそのような感動体験があるかというと本当のところはそれほど無いので、誇らしく話をしていながら一方でどこかで虚しさも感じています。

 

⑦ 罰への恐怖心

大きく分けて罰への恐怖心には三つあると考えています。一つは信じている宗教の神が、生殺与奪の権能を持った神で、自分自身の不信心や良くない行為のために神が罰を下すということに恐怖心を持つものです。ではその恐怖心はなぜ起きてくるのかというと、教団の教えで不信心や教えに逆らって罰が当たった物語や実例というものを沢山聞かされているケース、つまりその宗教の教育によって罰への恐怖心が起きてきます。ある宗教上の戒律を守らなかったから罰が下るのではないかということは、その宗教に入っていない人にとっては、どこ吹く風のように全く恐怖心が起きません。その宗教に入って信じているが故に起こる罰への恐怖心です。

二つ目は、その宗教の降霊などによって出てくる守護霊やその他の霊が言っていることで、自分自身が前世・過去世で罪を犯したと宣告されるケースがあります。その前世・過去世で犯した罪の償いのためにもこれこれこういう行をしないといけない、さもないとその罪の報いとして災厄が襲ってくると宣告されるものです。これは一つ目の教えに背くと罰が下るという教育よりも、個人的な宣告になるので信じる人にとってはインパクトが強いものです。

霊的なことを信じる人は、不確かなものを信じる傾向があるので、自己暗示にかかりやすいものです。罰が当たるという予言をなぜ恐れるのかというと、一つには人による罰ではなく神による罰であるということで「避けようがない」と思わされることです。また、もし罰というものが、その罰がいつ下るのか、その罰の内容は何か、〇月何〇日の〇時〇分にこのようなシチュエーションでこういう形で起きる、その結果このような影響や苦しい状態になる、と明確に示される類のものであるならば恐怖心はそれほど起きないものなのです。なぜなら、備えができ心の準備ができ、場合によってはその対策をすることができるからです。

1999年に人類が滅亡するという予言を信じたり、教団として滅亡予言をしていたようなところは信用を失いましたが、時期や内容に対して明確にしない方が心理的な不安感をあおるので、明確な予言はしない方が多いものです。予言や罰の宣告は「いつどんな形で起こるかわからないが、それは必ず起こり、避けようがないものだ」ということを強調し心理的に圧迫を与えていくことです。「避けようがない」という事に恐怖心がおきるものなのです。

最後の三つ目は一般的、世間的にも明らかに良くない行いをしていることを自分自身が自覚していて、その上で嘘をついている、その自分に罰が当たると恐怖しているケースがあります。いつかばれるのではないかとびくびくしていて、そのばれることが罰だと思っているケースです。これは罪悪感が基になっている罰への恐怖心です。その良くない行いを生み出している原因を自分の心に探して、自分自身を変える決意をして新しく生きなおすことが大切ですが、罪悪感を中和する心理療法というものもありますので、この罰への恐怖心を解決するために受けてみるのも一つの方法になると思います。

 

⑧ あわれみを持つという優越感

これはその宗教に入信しているがゆえに、優位な感覚や優越感があわれみという形で他者に対して出る意識や態度です。自分自身の属する宗教に対して不理解の態度を示す人に対して出やすいものです。このような態度がどのような現実を招いていくかというと、優越感からあわれみの態度を向けられた人は当然のようにその人に対して反発心を持ちます。

反発心を向けられればその人は相手をますます救いようのない人と断じて、敬遠し蔑視のまなざしを向けるようになります。元々は自分自身の困難を救ってくれた宗教を伝えるための布教であったはずが、救いとは真逆の見限り見捨てることをしている自分に気がつきません。時には「縁なき衆生は救いがたし」と言って自分を納得させようとします。宗教に対する優位な感覚や優越感は、そのような欺瞞を抱えていることを知れば、相対するその人がそれを直感的に察知して反発していることを理解することができます。

元々宗教を学ぶとは、パソコンに例えれば、ソフトをインストールする(学ぶ)ことによって、よりよいプログラムが自分の中に構築され(心が変わり、関わりが変わる)多くの作業ができる(自他共に調和的な関係をつくるための行いや貢献をする)ようになれることが大切で、その結果、より良い人生と深い幸福感が得られるようになるものです。

もし、その宗教を学んだことで、優位感覚や優越感が出るならば、そのような優位感覚や優越感が出るようなプログラムが自身の中にされているということです。そしてそれは教義の中や宗教団体の風土の中に、そのようなプログラムがある可能性が高いと言えます。

宗教を学んでいることや団体に属していることを、自分の優位を証明するためのアクセサリーのようにするのではなく、その宗教(プログラム)の価値は、それをインストールされたあなたが、どのように生きているかにかかっており、そこにこそ価値があるものです。

 

⑨ 奇跡願望

自分自身が有形無形の力によってすでに生かされているということに感謝の念を抱くことは、心に穏やかさや柔和さが出てきて安らぎの心境になります。そのこと自体には特に問題はありません。

また、自分自身の本当にやりたいことがはっきりしていて、そのことに向かって前進している充実感がある。そして、自己肯定感があり、自分を信じ、他人を信じることができる。日々、様々な発見があり、自分が生かされていることに感謝の念をもつことができている。具体的には家族や身近な人間関係が調和していて、仕事もやりがいがあり充実している。

そんな自分であったなら、未来に苦難や試練があったとしてもきっと乗り越えていけるにちがいない、そう思えることは安易な希望的観測ではなく、また奇跡があることを乞い願う必要のない自信であると思います。

しかし、心のどこかで不充足感や欠乏感、空虚な感覚、渇愛や虚しさによる葛藤を抱えていて、具体的には家族間の不理解や愛情問題に常に悩み、いつも同じような人間関係の問題に悩まされているということがある人などは、信仰をしていることでそれらの心理を直視することなく、その苦しみから逃れる術になっています。

自分の問題だけでなく、他の人の魂の救済や地上の平和のためにという信仰上の理念や目的を持っている人は、信仰していることによって自分の人生に奇跡が起こることを待ち望んでいます。または奇跡の力がすでに働いていて、自分が守られていることを信じています。

守られているからきっと救われる、通常ではありえないことが起きる、超自然的な力が働いたとしか思えない出来事、不治の病いが治る、九死に一生を得る、奇跡とか奇跡的な出来事が起こるに違いない、と未来に対して奇跡を待ち望むようになると空想癖、妄想癖と呼ばれるものになります。奇跡的なことが起こる空想・妄想と今現在の自分自身の解決されない悩みの格差に葛藤を抱くようになります。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、「人事は尽くさず奇跡を待ち望む」ことになりがちです。いや、「努力はしている」と言う場合も、その現実に智慧を尽くして具体的に現実に関わることよりも、そこの宗教の行や修行をしているということで、人事を尽くす代わりにしています。

 

⑩ 日常生活、社会からの逃避

興宗教団体に入信し信仰の世界に入ると、それまでの生活とは違う宗教行事や信仰を基いとした人間関係と出会います。新しく入信した人には総じて優しく接してくれますし、仕事の行き詰まり、家族・人間関係の軋轢などを契機として、入信した人には悩み事の相談にも乗ってもらえます。また、その宗教の信仰をすれば悩み事の解消や問題の解決に導かれると教えられるので、新しいものの見方や考え方を知って、教えとその信仰の共同体に新しい世界を見て希望を抱くようになります。

そこには、今まで縛り付けられていた社会的な制約、特に仕事や職業上での地位や序列とは別の世界があります。教団の崇高な教えや修行体系、教祖を中心とした魂の階層ともいうべきものがあり、欲望や利害が色濃く重視される一般社会とは別世界ともいうべき清浄な世界を演出してあります。その時には教団の掲げる高邁な理想と志に感銘して、時にはそのままその教団に出家したいと思うこともあるかもしれません。

しかし、このまま信仰をする団体の中に居続けていたい、できれば出家して日常生活すべてを教団に関わることのみに費やしたいという気持ちが出てきた時には、その出家願望の本当の動機を確かめてみることです。一般社会でのストレスが高じたために、社会の中で生きることに疲れたなどから出家願望をもつとするなら、それは現実逃避が動機となっているからかもしれません。世俗の欲望の醜さに嫌悪する感情から清浄な世界にだけ住むことを望んだとしても

そこで現実逃避とはどういうことなのかを考えて見ますが、私たちの生きる現実とは、人間の基本的な営みに根ざしているということです。最も基本的なことは食べること、つまり生活の糧を得ることがありますが、私たちの生命は他の生命の犠牲(殺して食べる)の上に初めて成り立つものです。

もし私たちの肉体が食物を得ることなく生存することができるならば、現存する多くの職業というものが無くなり、紛争やトラブルも少なくなるに違いありません。つまり、私たちが生きるということは、それを支える働きやトラブルなどとワンセットであるということです。

私たちの生きる現実の不合理やトラブルや困難などの解決は、その現実を踏まえた上でより高い精神性への向上やコミュニケーション、システムの整備などを人間の知恵を絞り、蓄積して実現していく他にありません。

しかし、宗教の世界では多くは、肉体のないあの世を基調としています。信仰の世界に入ったからといってこの生きる現実から足を離して、すぐさま理想的な世界に住めると思うなら、それは空想であり、現実逃避ということになります。宗教の修行は魂の向上と言われますが、肉体の無い世界に生きるならともかく、あくまでこの肉体の面倒(地上の汚わい、不条理に足をつける)をみながらの修行であるということです。

宗教依存症は、とにかく苦しい現実から逃れたいという動機で宗教団体を逃避先にすることがあります。そのことで一時的な苦しい意識の沈静は図れるかもしれませんが、生きる活力や歓びからは遠くなります。生きることの基本である生活から遊離してしまうために、宗教団体の会合や集いに行った時の心の平安と、現実生活の苦しさが乖離していきます。つまり現実生活で本当の意味で解決を伴う精神的な安定が得られないために、心の安らぎの逃避先として宗教団体への関わりの比重が多くなっていきます。

 

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