宗教を深く求める場合の注意点

新興宗教に出家したいと考える人に

宗教には家庭生活、社会生活を健全、円滑に送るということに、とどまらない奥行きがあることも事実です。その現れとして、その宗教の世界の奥行き、神仏と信仰の世界に魅せられて、出家したり一身を投げ出すように求めていくという選択肢が一方であります。

そもそも宗教の開祖や高弟や聖人と呼ばれる人の中には、世間の不理解と戦い、時には迫害を受けながら布教・伝道に尽力して人々の意識改革を図ったり、その道を究めて一流一派を築いたような人たちです。そしてそれぞれの宗教においては、そのような方の物語に学び・倣うことを良しとする風土があります。

そうした開祖や聖人と言われる人たちは、改革者としての色合いが濃いですから、「社会生活、家庭生活を営むことを前提にした健全な宗教性」として論じることができなくなるのです。そしてまた、その一身を投げ出すように求めていく姿勢に感化され陶酔し、模倣しようとして、信者が「こんなはずじゃなかった」という憂き目に遭うケースが起きることがあります。

なぜそのようになるかといえば、一心に求める生きざまに感化されることによって、本人の宗教依存症が促進されてしまったり、また宗教団体側が勢力拡大の道具として信者を利用するために、意図的にそのような物語を植え付けたりします。その結果、信者が自分の生活の条件を顧みず活動にのめりこんでしまい、家庭生活・社会生活がそのことによって瓦解してしまうことがあります。

どんなに開祖や聖人の生き様に感化されたとしても、急進的な姿勢やこだわり多い心からでは、かならずその偏りによって、自分自身の周辺に混乱や不調和を及ぼし、自身にも反作用があるということを肝に銘じておきましょう。

そこで、ここではより深く宗教を求める衝動にかられる人をも念頭に入れて、社会生活・家庭生活をかかえながらも「宗教を深く求める場合の注意点」というテーマに沿って、5つの注意事項の要件を追加しています。それを順を追って解説したいと思います。

① 宗教的な希求心・托身と依存心の弁別をする

ここでは神仏を求める心、宗教的な真実を生きる生き方を強く求める心、それを希求心と呼ぶことにします。それらは、強く求めるが故に真摯で切実・誠実な探求心や自律心に満ちています。神仏を求め、師を求め、一旦、その道に入ったならば、どこまでもその道を究めんとする気迫に満ちているものです。
そのような希求心を持った求道者ともいえる人に最終的に求められるものは、「すべては神、仏の御心のままに」という神仏や師に対して全托身する姿勢になります。

キリスト教にしても、仏教にしてもそのような生き方をした使徒、仏弟子の物語は美しく語られ、宗教的な生き方を求める方の中には、そのような生き方に感動して感化され、自分自身もそのような生き方をしたいと志向する方もおられるのかもしれません。

しかし、ここでいうところの全托身、托身という生き方、求め方は、「言われていることを守っているから大丈夫」とか「この教えは正しいのだからそれを守っていればいい」という安易で依存的な考えを基いとして信仰している中からは芽生えてこないものです。

自分自身の内的必然とも呼べるエネルギー(自分は元々何を求め、何を知り、何を解決したいのか)に繋がり突き動かされて、あらゆる努力と検証を重ねることが希求心の表れであり、その果てにさなぎから蝶々が羽化するように、自分自身の内から現れてくる境地と生き様こそが托身といえるものです。

この最も代表的な例が釈迦と言えます。釈迦は自分の人生に対する疑問を解決し悟りを得るために妻と子を捨てて出家しますが、出家した後に当初三人の師に就いて修行をします。その師の元で修行をした釈迦は、そこの師に認められ、後継者にならないかと持ち掛けられますが、「ここでは自分の求める悟りは得られない」としてそれを断り、その師のもとを去ります。そういうことを三度繰り返して、やがて求める師がいないことを悟り、大悟に至る菩提樹の下での禅定に入っていきます。

もし、釈迦が沢山の修行者の中から師匠に認められ、師から後継者にと請われることに満足して、その教団に留まっていたなら、大悟は得られず仏教は興らなかったかもしれません。賞賛・褒章に魅入られる依存心に囚われず、自身の内的必然のエネルギー(釈迦の場合は、生老病死という苦の現実の原因と解決)につながったからこそ、後につづく大悟への道(全托身)の境地へと誘われました

よく主に芸事の道を究めるためにそのステップとして出される「守破離」の指針を引き合いに出して、まずは疑いを持たずにその教えの枠にハマって実践することの重要性が説かれます。そのこと自体は大切なことですが、しかし、宗教の場合、疑問のための疑問(疑いで思い煩うこと)ではなく、疑問・追及の姿勢は大切であり、全く何の疑問を持つことも禁じられて、従うことをのみ求められるならば、内的必然のエネルギーから離れてしまい、「偽りの托身」という殻を被った依存心のままに安住することになりがちです。それでは教祖と教団が真実からズレていても、自覚できないマインドコントロールの罠にかかってしまいます。

「俗世間に居ては悟りは得られないから出家する」と考えているのなら、心を乱す雑音多い世界から、出家して静寂な空間に身を投げ入れて心が静かになったとしても、また世間に出たらもろくも崩れる程度のものになります。出家が逃避や依存になっていないかを考え、日々の生活の中にこそ修行(人生修行)があり、歓びがあることを知りましょう。

② 因果関係の理解が自己中心の曲解にならない

因果関係というのは簡単には原因と結果を指します。原因と結果の捉え方は原因となっているいくつかの要素が結果を導くための引き金となっているということで、原因と結果にはつながりがあり、私たちは日常的にいろいろな点で原因と結果をつないでいるものです。

私たちの日常の中で不調和な現実が起きた時に、その原因が自分の主導権の範囲内(心や行い、主たる環境に対する責任)であれば、不完全ながらも何らかの自分自身の変革を心していき、自身の成長を考えていくことになります。しかし、その不調和な現実に対して、他者からの関わりにその主たる原因を見た場合に、怒り・反感・恨み等の感情を抱きやすくなります。

例えば人間関係において、子供の病気や事故に遭ったこと、試験の結果や商売が傾いたことなど、あらゆる負の現実、期待に添わない現実という結果に対して「何でそうなったのだろう?」「何が悪かったのだろうか?」とその原因を探し求め、その原因をある一定の他者が一方的に悪いと設定することはよくあることです。

そうすると私たちが物事や人を見る際の認識が負の感情を含んだ思いこみに支配されていくことになり、この負の感情を含んだ思い込みのフィルターがかかった認識が育つと、因果関係の理解が曲解的になっていき、主に被害者意識的な因果関係の理解、曲解に基づく判断が多くなります。

次にそのような負の出来事の連鎖や不幸な出来事がいくつも積み重なると、その総和に対して原因と結果の因果関係を結ぶことが容易にはできなくなります。「なぜ自分の人生にこのような出来事ばかりが起こるのか」「なぜこのような目にばかり合わなくてはならないのか」「なぜこのような人生を歩まなければならないのか」等、このような問いかけに答えること、原因と結果を容易に結ぶことができないことを人は「運命」と呼んできました。そして、なぜこのような運命なのかということに対して答えを得ようとして人が頼っていくのが、宗教であったり、占いであったり、巷の霊媒師であったりします。

たとえそのような苦境や不運であったとしても、現実的な対処の面においては様々な相談機関があり、また精神的な面であれば、私たちの認識の仕方から心の持ち方を掘り下げて改善したり新たな心とコミュニケーションの習慣をつけるための自己改革の方法があります。そこから運命の軌道修正を計る道もあるのですが、特に新興宗教、霊媒師や占い師などは、その因果の回答を安易に与えるケースが多いようです。

私たちの不幸な運命の原因を「あなたの何代前の先祖が地獄に堕ちている」とか「あなたは過去世で悪事を働いて多くの人を殺めた」とか「あなたのお墓の墓相が悪い」等と言って、因果を結びつけようとします。私たちは過去の人生のパノラマを前にして、その成り立ちや仕組みが理解できないが故に、余人が知ることができない因果の回答を与えられると苦悩があるが故に信じてしまいます。

その結果として、依存心が引き出されて、その因果を断ち切るために、高い戒名をつけなさいといわれれば戒名を変えたり、お経を唱えなさいと言われれば唱え、高額の喜捨をしなさいと言われればするようになります。そのようにしていくことを積み重ねていくと、自分自身を見失い、そこから抜けられなくなりますし、抜けようとすると強烈な恐怖心を抱くようになります。

私たちは何よりもまず自分自身の心を知っていくことが大切で、そこを抜きにして外に直接的に因果の回答を求めることをして盲目的に信じていくと、一時は回答を与えられた安堵があったとしても最終的には依存心と恐怖の虜となってしまうのです

③ 超自然的存在に対する正邪を弁別する

まず自然的存在とは、大自然の中にある動・植・鉱物一つ一つであり、その全体であります。私たち人間を含めて、その身体の仕組みは消化器系、循環器系などそれぞれに器官とシステムが相互に補完し連絡を取り合って、全体として身体を成り立たせています。その身体も外部からの食物や酸素などのエネルギーを取り入れて排泄するような交換を行い、発汗による体温調節をするなど、大自然のシステムの中で生きていけるような精緻なシステムとなっています。

私たちを取り巻く自然に目を移すと、大気や水の循環、植物の光合成、食物連鎖など、相互に関わり合い循環して大自然の秩序を維持しようとしています。宇宙に目を向ければ、地球の自転・公転、太陽の存在など、その存在・力がどれ一つとして欠けたり停止するならば、全体が成り立たなくなります。壮大なジグソーパズルの一つ一つのようです。このような私たちの内部や私たち自身を取り巻く外部がとても大きく精緻なシステムで運営されているおかげで、私たちは生きて存在することができます。

しかし、四季の色どり豊かで自然の恵みを享受できる日本にあっては、比較的自然に対して感謝を抱きやすいのかもしれませんが、灼熱・極寒の土地、危険な動物・植物、険しい渓谷や暴風雨の天候などが沢山ある地域においては、自然は脅威であり、自然との闘いは試練であり、それによって命を落とすことは数え切れなくあります。

つまり大自然は私たち人間に対して生きる環境を与え、恵みを与えるという支援と同時に命を危険にさらす試練を与えている存在です。支援と試練が私たち人間の存在・魂をたくましく成長させてくれるのです。それを踏まえたうえで、自分を超えた精緻で圧倒的な力が働いて、全てが生かされ自分自身もその中で生かされていることに気づく時に、大自然の存在に対して畏敬を含んだ感謝の想いを抱くことになります。

畏敬とは畏れ敬うことであり、ただ恵みのみを受け取る感謝ではなく、支援と試練を同時に与え、その中で生かそうとする自分を超えた大きな存在に対する内側から滲み出てくる人間本来の素朴な感情です。

次に超自然的存在とは、このような目に見える大自然の秩序を背後で支える見えない力・意図であったり、自然に宿る精霊などです。もともと自然の支援と試練に対して畏敬を含んだ感謝の念を覚えるのは、現象的な支援と試練の表れではなく、それを通して育もうとする、大自然の秩序を背後で支える見えない力・意図を感じ取ってきたからです。古(いにしえ)の時代からその背後で支える見えない力・意図を人は「神」と呼んできました。

そして自然の在り方や自然が与える中から見いだした見えない意図と力に「無償の愛」「最も尊い在り方」を感じているからこそ畏敬と感謝を抱いてきたものと思われます。つまり超自然的な存在の基本的な在り方は「無償の愛」をベースにしています。計り知れない精緻さとバランスをもって時間的にも空間的にも大きなスパンをもっている「無償の愛」は人間が持ちうることのできないものです。

「無償の愛」につながる時に、畏敬と感謝の念が起こり、感情的には歓びが起こり、意志には生きる意欲と自律がはたらきます。ところがこの大自然の在り方をバックボーンとしない超自然的存在のようなものを取り次ぐ宗教や霊媒師の語るものの中には「強迫」をベースとしているものがあります。「強迫」につながる時には恐怖心が起こり、感情的には不安が起こり、意志には無力感と依存がはたらきます。自分がつながろうとしているものがどういうものかを弁別することが大切です。

④ 急進的・強迫的・排他的にならない

依存心を基いとしたしがみつき状態によって、目的を定めて邁進するのは、ちょうど高速道路を300キロで走る暴走車のようなものです。

高速道路を300キロで走る車を運転していることを想像してみてください。追い越す車の有無や道路がどのようにカーブをしているかをいち早く察知することができるように、まず視線は前方にくぎ付けになります。視界はその前方の限られた範囲のみに限定されて、周囲の景色や情景は猛スピードで流れていくために見えないに等しくなります。また、風を切る音やエンジン音が大きくなって周囲の音は聞こえなくなります。これが急進的ということの例えです。

急進的になると視野は狭く、周囲の声も聞こえない、極度の緊張と恐怖感、相手の立場から考えたり俯瞰的に物事を捉える余裕もなく、ただ前進することしか頭にない状態です。

なぜ、そうまでして急進的になるのか、なぜアクセルを踏み込むことをゆるめることができないのか。目指すところに何かがあり、それを早く手にすることを焦っているのかもしれませんし、その何かを得ること強迫的に要求され、またはアクセルを緩めることを強迫的に禁じられているのかもしれません。

どうしても「~~しなければならない」「さもなくば〇〇になってしまう」という「~~」と「〇〇」にはそれぞれ何があてはまるでしょうか。あてはまる「〇〇」が自分を駆り立て、追い立てているものであり、それは誰かが言った命令のような言葉なのか教義なのか、それが強迫的になることの正体です。

次に排他的ということは、排除することで有形または無形の利益が守られるから排除するということが理由の一つにあります。宗教依存症の場合には、その宗教の神や信仰の対象物、教義、教祖など何かにしがみついているわけですが、なぜしがみついているかといえば、依存症の心理である内面の空虚さや不充足感・渇愛があり、それの穴埋めをしようとしてしがみつくわけです。しがみつきながらもそれらが満たされるのかといえばそうではなく、褒章が与えられるかのような目標を掲げられると、またそれを得ようとして邁進してしまいます。

そこまでして得よう、しがみつこうとしているものが本人にとって価値のないものであるわけがなく、もし他の人から攻撃されると激しく反発します。その批判を受け入れることは自らが信じるものの価値が下がるように思えるからです。また他のものを否定し排除することによって、相対的にその価値が上がると本人は思い込んでいます。だから他の宗教やまた同じ宗教の中にあっても内面においては排他的になります。

この急進的・強迫的・排他的な特徴は依存症の特徴であり、主導権を自分自身に取り戻し、真の自律心が育まれることによってその特徴は収束していきます。

⑤ 宗教依存症の10の兆候がない

先に掲げた宗教依存症の10の特徴ですが、その特徴は主に「褒章と恐怖」を原点に立ち現われ働いているものです。「褒章」とは、簡単に言えば「ほめられること」であり「受け入れられること」とも言えます。また「恐怖」とは、ここでは身体的な危機によって起こる恐怖ではなく「見捨てられること」があてはまるでしょう。

つまり「ほめられること」を求め、「見捨てられること」を避けようとする意識が基盤となっているということです。もちろん、この意識は宗教依存症でなくても一般的にだれもが多少は持ち合わせているものです。では宗教依存症になればどこが違うのかと言えば、その求め方が先に述べた急進的・強迫的・排他的になるということです。

急進的・強迫的・排他的になるがゆえに、一見とても熱心に信仰し、宗教活動をしているように見えますが内面においては満たされない想いや葛藤が渦巻いています。大抵の宗教では心の持ち方も説かれていますので、そのような葛藤や満たされない想いがあったとしても、教義に照らし合わせてそのような葛藤や満たされない想いあるのは駄目だと打ち消し、押し込めたりします。その為に自分が感動する説法などを聞いたり読経・祈りに打ち込んでみたりします。

心のことを取り組んでいるかのように見えて実は本当には向き合うことをせずに、気を逸らせているにすぎないのではないかと思います。その証拠にその「気を逸らせる」行や説法が済んでしまえば、再び内面の葛藤が現れて心をかき乱すからです。そうするとまた「気を逸らせる」行や宗教活動に打ち込むことになります。

急進的・強迫的・排他的に信仰や宗教活動に打ち込み、それでも心の平安がなく好転も見込めない現実を直視して苦しみ、あきらめや内面の葛藤から気を逸らせるために、また行(ぎょう)や宗教活動に打ち込む様は、回転ゲージの中で一生懸命走るラットのようです。自分がどこへ向かっているかもわからない、そして走っていても求めるものは得られない、なぜこんなに走っているのかとふと思うことがあっても、また走ることをやめることができないでいます。

まずは急進的・強迫的に走る速度をゆるめていき、その回転ケージの中から一旦外にでることです。そしてじっくりと心の棚卸しをして心の気づきや癒しが深まっていくと、徐々に宗教依存症の10の兆候が消失していき、自分自身の心の中心に主導権を取り戻していくことができます。主導権を取り戻すとは、自分自身の心を見つめ知ることができる、現実に向かい合い開拓していくことができる、周囲との絆が結び直されて歓びと充実の内に人生を送ることができるということです。

(このサイトの宗教依存症に関する理論はRCラボオリジナルです。文章は著作権法で保護されており、無断転載・流用等を禁じます)

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