ここで宗教団体に入ってからの生活のパターンをあげてみます。宗教団体に入信したきっかけから、入信して活動していく時期、そしてやがて宗教団体に入っているからこそ不自由になっていく時期というものがあり、それは、信仰する神様や教義が違えども、どの宗教団体にも同じようにあるパターンです。

これは宗教団体に入信して送ることになる、疑問と葛藤を含んでいる道筋です。それを言葉で表しているのが、このサイトの最初のページであるヘッダー画像に記載されている文章です。

「すがりつくように信じて、奉仕活動に忙しくなって、置き去りになる私の人生」


この三つの段階の解説を読んでいくことを通して、まずは自分自身の入信した動機やきっかけを思いだしてみましょう。その宗教に入信する前、どんなことに困っていて何を望んで入信したのか、そして、それは入信によって解決したり成就されたりしたのかを改めて自分自身に問うことが大切です。そして、その後どのような教団との関係になり、どのように自分自身が活動をしていったか、そのことをあらためて思いだしてみましょう。

 

①すがりつくように信じて

悩み・苦しみや孤独感からの出発

まず第一は「すがりつくように信じて」という入信初期の段階です。宗教団体に入信する動機としては、なんらかの悩みの状態を解決して抜け出るためということが多いと思います。純粋に宗教に関心があり、色々な宗教団体のことを調べあげてその中からここが良さそうだと選んで入信したという人は少ないはずです。そこの宗教の出版している本やパンフレットを読んでというのがあったとしても大抵はそれと同時に、勧誘によって入信することが多いようです。

悩み・苦しみは大きく分けて三つあり、それを<貧・病・争>と表現されてきました。

  • 貧=経済的困窮、経済問題
  • 病=病気・身体的問題
  • 争=人間関係のトラブル、家族関係の問題、訴訟に至るトラブル

 

入信前には家庭内の問題があり、機能不全家族の中で育った為に心の痛みがある。または会社や一般の人間関係がうまくいかない、あるいは人間関係を作ることができないなど具体的な問題を通しての悩みなどがあります。

そして、そこから出てくるそこはかとなくある不安感や孤独感を抱えていたり、人生に対する疑問や諦めがある等、大小さまざまな悩みを抱えている方が多いものです。そして本人もそのような悩みや事態に対して成すすべもなくお手上げ状態、いったい何から手を付けていいのかわからない、途方にくれるような状態である時期です。

そのような状態の時に、こちらの宗教を信仰すると、その問題、悩み、苦しみを解決することができるというパンフレットや書籍、勧誘する人の話しに出会います。そこには神と信仰の世界を語る教祖の話や、「子供の登校拒否が治った」「その宗教によって救われた、悩みが解消した」という信者の体験談が書かれています。特に病気が治ったという信仰体験談は、どこの教団でもそのパンフレットの目につく場所に掲載されている状態です。

初めはおっかなびっくりであったものの、次第に関心を寄せてゆき、勧誘する人に付き添われて教団施設へ赴いた方も多いはずです。

 

コミュニティに癒される

そこですでに信者になっている人たちに出会い、座談会のような場で新しく入った人は特に温かく迎え入れられます。自分自身が藁をもつかむような状態になると、まったく初対面な人にも関わらず、私たちは普段することのない自己開示(心を開いて自分の悩み、苦しみ、思っていることの話しをする)をしていきます。そうすると心理的には無防備な状態となって、そこで語られる言葉などが強く心にインパクトをもって入ってくることになります。

悩み、苦しみを抱えた方はその苦しみに一人耐えて、孤独感を感じている方が多いものです。宗教団体には信者同志のコミュニティがどこでもありますが、宗教の力というよりも親身になって話しを聞いてくれる人たちがいるコミュニティの力、人間の絆の力によって、当初の孤独感や切迫感が癒されていきます。ここでの癒しと神仏の力に対する期待に希望を抱くことによって、心が軽く明るくなり、今までの物事や事態が好転に向かうことがあります。ビギナーズラックともいえるご利益のようなものがあるのです。そしてそのことによって、神仏の力やご利益に確信を抱くことになります。しかし、苦しみがなくなり、困難が根本的に解消されたわけではありません。

しかし同じ真理(教義)を知って共有している「仲間」の中にいるという安心感があります。そしてコミュニティの力によって癒されて心を開いたその人は、語られる神仏の話に耳を傾けて、徐々に教義の話や教祖の話を自分自身の中に受け入れていきます。入信を勧められてやがて自分自身が信仰生活を送ることを決意していきます。

新しい世界を知ったその人は、希望を感じて教団の教義やシステム、ならわしなどを学んでいきます。座談会に参加するところから始まり、その教団特有の修行に必要なものを購入してそれを実行していくことで、その教団の人となっていきます。

 

霊能力者との対話

新宗教を求める新しい世代には、悩みや孤独感をコミュニティによって癒されることを望まない人たちが増えています。宗教の個人化が進んでいると言って良いでしょう。教団の霊能力者に個人的な問題を解決するための宣託を修行の一環として受ける機会があったりします。また個人的な霊的能力を開発していく修行をプログラムにしている教団もあり、特に強い悩みというものはないが、スピリチュアルな世界に強く惹かれる人を取り込んでいきます。

その教団の教祖が霊能力者であると、その弟子も修行して霊能力を身につけた人が多いものです。その力のない人間からすると、自分とは違う特殊な能力を身につけた人、神様と通じることができる人、霊視、霊聴ができる人は特別な存在と感じられて畏怖の念を抱くようになります。 何か自分のこと、自分の未来のことをを見透かされているように感じるのです。

すでにその段階で自分の意識にバイアスがかかっているのですが、そんな霊能者が自分に向けられる言葉は、真実だと感じられて心に残り、まるで催眠をかけられているように、その指示に従うようになります。

 

②奉仕活動に忙しくなって

新しく信者になったその人は、教団の学びや集会、座談会や修行に関する行事に一つひとつ参加していきます。そして本やパンフレットで述べられていることを、今度は教祖や教務の人間、教団の先輩から教えられていくことになります。集会や座談会では、他の信者の信仰体験や質疑応答などもされていきます。

支配と依存の関係の構築

心を開き、教義を受け入れる準備が整ったその人は、教団の一員となります。宗教組織の一員になることは、信じる神様を頂点として教祖や高弟などの縦の系列の傘下に入ることでもあります。まったく自由な立場でその宗教を学ぶのとは違い、その教団内に入るということは、その教団のしきたり、ルール、習慣、風土などを自分自身の心に写し取っていくことになります。そこで善しとされることを善しとし、悪しとされることに対しては、遠ざかるようになっていきます。従順であり真面目であればあるほど、支配と依存の檻の中に納まっていきます。

神様をTOPとした教団組織の中の序列や役職というのは、本人にとって世界で唯一の場所であり、その宗教こそが最上であると信じることは、相対的に他の宗教に対して距離を取ることになります。所属する会社を変わる転職のように他の宗教に鞍替えするということがしずらくなります。そこに脱会に伴う罰や不幸になる実例話などを聞かされていくと心理的なブロックがかかっていき、支配と依存の檻を強固にしていきます。このブロックはたとえ脱会したとしても恐怖感におののくことがあるので侮れません。

 

恐怖と救い(褒賞)を植え付けられる

ある宗教は様々な人生の困難や苦しみの原因は、たたり・霊障・因縁・前世の悪行の報いにあるとして、沢山の霊障の種類や因縁の種類をあげて解説していきます。たたりや因縁話を信じる人は多く、「不成仏霊に付きまとわれて、悪因縁の影響で生命力が下がり、運気が下がる。」などの解説を受けた信者は、見えない世界の力、霊的なものに恐怖心を抱くようになります。そのようにして沢山の恐怖心を植え付けていくのですが、実際にある宗教の管長は「信仰に入るきっかけは恐れ(恐怖心)だ」として、それを認め、むしろ奨励しています。

そのように沢山の恐怖心を植え付けた上で、次に私たちの運勢を下げる霊障や祟り、因縁や前世の悪行の報いなどを受けないようにするにはどうすればいいか、その答えはその宗教団体のお祓いや修行、奉仕活動を行うことであると信じこませます。そしてその霊能者との面接において、新たな前世の悪行や霊障を告げられるので、修行が際限もなく繰り返されて、本人には運勢が上がったり、悪因縁や霊障が払われた実感がないままに救いと恐怖の間で彷徨うことになります。

加えて悪因縁を断ち切り、病気を治すためには、財産を処分して献金することが必要と言われたり、高価な仏像・仏壇・多宝塔の類を購入することであったりします。いわゆる霊感商法と言われるものの被害が多いのは、こういう霊能者による霊視鑑定、霊障鑑定の類です。実は霊視鑑定には、どのようなまなざしや態度・言葉が受信者に信じられ、影響力を与えることができるかは研究されておりマニュアルさえあります。

霊感商法で何百万、何千万と騙し取られてしまう人がいるということは、その人たちは霊能者の霊能力の力によって騙されたわけでも何でもなく、このような意識のカラクリ、バイアスがかかった思い込み、霊能力など何の関係もない巧みな心理操作によって騙されたわけです。いかに思い込みの力が強いものなのかということを知っておかなければなりません。

また、悩みの切実さが高ければ高いほど、その解決策を示されると「これに依るしかない」と希望の光を感じて急進的に突き進むものです。それが他の人の意見や忠告に耳を貸さなくさせてしまいます。そこへ「疑うことを神様は嫌う」「神様のことをわからない人の言うことに惑わされてはいけない」等と暗示による固定化と他からの情報のシャットダウン、また同じ信念を持っている教団の人達からの刷り込みなどを受けます。

  • 雰囲気を創出 ⇒ 部屋、まなざしや態度、言葉暗示を受けやすい催眠状態を作る)
  • 霊示を告げる ⇒ このままにしておくとこうなる(不安を煽る)
  • クロージング ⇒ このようにしなさい<さもなくば・・・>(恐怖に後押しされた救いの提示)
  • 他の情報の遮断 ⇒ 他の人の意見や情報に耳を貸さなくさせる(暗示)

 

 

奉仕活動の最優先は布教・伝道

入信をして間もない段階であっても布教・伝道をすることを奨励し義務のように課してくるところもあります。奉仕活動の中には教団のシステムの維持運営、また社会奉仕活動などがありますが、最優先されるのは布教・伝道です。入信をして、さあこれから学び、信仰の行や修行をして、人生の暗転の課題を克服していくことを考えているところに、早々と他人に伝えていきましょう、布教・伝道という言葉を聞いて面食らう人もあります。

それに対しては「この素晴らしい教祖と教えに触れることができたあなたは既に救われている」という教団側の論理があります。そして、その論理を下敷きにして「すでに救われたあなたが今度は他の人に救いの手を差し伸べるのは当然のこと」「福音を述べ伝えるのは神様の手足として働くことで神聖な経験です」「伝道・布教は最も尊い菩薩行で、その功徳は計り知れなく、7代までの先祖の霊が浮かばれて子孫が仏の加護を受ける」「伝道・布教の功徳は悪因縁を切断し、無病息災の果報を得る」等々、教団によってさまざまな説明が成されて、本人の中では「そうか、このことも自分の人生の好転を生むための行なのだ」と心に収めて伝道・布教活動に参加していくことになります。

一人でも多くの人の救済と世界平和実現のためにという名目で、教団の拡大、信者獲得のために働きます。具体的には信者が一般家庭に個別訪問をしたり、街角に立って教団の冊子を手渡したりします。知人友人に電話をして教祖の書物を送り、手渡して教団の行事や集会・座談会へ誘ったりしていきます。また、教祖の出版物を書店に並べるために書店と交渉し、平積みの枠を確保するために信者が互いに声を掛け合い書籍を購入するなど、伝道・布教の奉仕の働きは多くあります。

また、伝道・布教の奉仕は、信者の獲得数という具体的に数値で測れるものですので、営業会社が営業所毎に販売数、顧客獲得数をグラフにして売り上げ目標を立てるように、具体的な信者獲得数を目標値として一般信者に伝道・布教のはっぱをかけるところもあります。目標数値を達成すれば拍手喝采され、クリアできなければののしられ蔑視されますので、目標達成の為にエネルギーをますます注いでいくようなシステムになっています。

そのようにして伝道・布教の奉仕だけでなく、その他の奉仕や勉強会、集会運営など掛け持ちでするようになると、教団への奉仕活動が忙しくなり、その時間の割合が次第に増えていくことになります。そしてそれに関わる経費や付随する献金などをしていくと、時間だけでなく金銭的な出費もかさんでいくことになります。

 

霊能力開発の資格を得るための修行に入る

霊能力者になるための修行があり、資格を得ると教団内で霊能力者として、その力を使い信者の相談に乗ることができます。自分自身が神様と繋がり、また他の人のためになる、人生に貢献できるという奉仕の心を満たすことができます。しかし、この資格はあくまでその教団の中でのみ通用するものです。

その力や資格は普遍的で有用性があるのか、よっぽど類い稀な力をもっていれば別ですが、それをもって教団から離れて個別に悩める人の相談に乗ったり、その霊能力を使って解決に導いたりすることができるのかを考えてみることが大切でしょう。つまり教団というバックボーンがあって初めて通用する霊能力者です。

多額の費用と時間をかけてその資格を取り、無報酬のボランティアでその相談業務の奉仕活動をするということは、教団の歯車の一つになることを志願しているのと同じです。ますます、奉仕活動が忙しくなりライフワークの様になっていきます。

 

③置き去りになる私の人生

教団内での矛盾や不幸な人間模様に出会う

教団内で教えられていることとは矛盾するような人間の現実に出会ったりもします。聖なる清らかな場だと思っていたはずが、妬み・そしり・中傷・誹謗・信者による信者つぶしなど、一般社会に勝るとも劣らぬ、より深い人間の醜さを見せらて失望する場面があります。より深く内部を知っていくにしたがって、様々な人間模様や序列にとらわれた姿、教義と実際の違い、不幸を抱えたままいつまでも陰で苦しんでいる信者の姿が目に入ってきます。

いつまでも救われない人は教団にとっても不都合なので除外や排斥したりします。神様の力によっても救われない人がいるというのはあってはいけないのです。そういう人はやがて教団の表には出てこなくなり、集まりにも出てこなくなります。

 

実生活での困難の表出

宗教の奉仕活動は、日常生活の中で時間を割いていくことになりますので、普通に会社勤めをしている男性は奉仕活動に参加できないことが多く、時間に余裕のある主婦、退職後のシニア・高齢者が奉仕活動に参加することが多いようです。仮に一家の大黒柱であるご主人や主に経済的に支えている方が、宗教団体の奉仕活動に参加するとなると仕事に支障ない程度に収めることが大切ですが、宗教依存症になると、その判断ができないで奉仕活動に邁進するといったことになります。

家庭生活なども家計のみならず、家族・親戚、地域のコミュニケーションなども気を配り、具体的に取り組むことで初めて円滑にいくものです。それらのことを脇において宗教団体の奉仕活動にのみ一点集中してしまい、他のことには無関心であったり、上の空状態になると、やはり気にかけ、手をかけていないところには、水面下で問題が進行・拡大して、やがて解決困難な形で問題が表面化してくるものです。そのようにして、基盤、ベースとなる家族を宗教の奉仕活動の果てに瓦解させてしまった方からの相談もあります。

 

信仰しても治らない病気、つきない悩み

「悩みが解消しないのは、本人の祈りや修行の不足」多くの人は悩みにしても病気にしても、医者にかかっても治らないなどがあり、また原因不明の病気などを治す最後の頼みとして神頼みをするものです。そしてまた、教団の広報誌にもそのように奇跡的な病気治癒の例などを大きく載せているものです。

それはつまり、あの療法やこの治療でこの病気は治りますが、こちらの神頼みでも治りますよ、という謳い方ではなくて、どんなことをしても治らなかったものが奇跡的に治るという謳い方をしています。それだからこそ奇跡的であり神様の力ということになります。

しかし、この奇跡は、どうも一朝一夕には起きることがない奇跡のようです。望む奇跡が起きないときには「信仰が足りない」「修行が足りない」「奉仕が足りない」「悪因縁を立つには多額の献金をしなければいけない」などと奇跡が起きるまでに沢山の不足を数えられることになります。

当初、この宗教を信仰すると、このような「病気が治る」「悩みが解消する」「奇跡が起きます」と呼び込んでおいて、最終的には「奇跡が起きないのはあなたのせい」というところに収まります。

 

奉仕活動にハマる

奉仕活動にハマる心理はどのようなものなのか、前向きな動機と後ろ向きな動機のものがあります。まず前向きな動機による奉仕活動では、その魅力は何なのでしょうか?次にこれが全てではないですが三項目ほど挙げてみました。

  • 利害関係がなく、同じ目的を持った人間同士という一体感で、楽しく語り合いながら取り組むことができる。
  • 「他の人の役に立っている」「感謝をされる」という想いが自己有用感を満たす。
  • 高い理想を掲げて、そのために身を捧げている自分に満足し、自己肯定感が増す。

等があります。

この反対のことが実生活とその周辺であり、精神的に疲弊してしまった人などは、奉仕活動が心の持っていき場所となります。

つまり、

①利害関係に敏感な関係、それぞれの思惑があってバラバラで、同じ目的など持ちようもなく楽しい語り合いなどない。

②自分のやっていることが他の為になっていると感じられず、周囲もそう思っていて、自分の日常の働きに他から感謝されない。

③理想などは描きようがなく、あきらめと徒労感に満たされている。そんな自分が情けなく卑小な存在に思えてくる。

そのような日常を送っている方が奉仕活動に魅力を感じたとしても無理もないことだといえます。しかし、宗教はその実生活の状態を改善できるご利益がその奉仕活動にあるとしているのですが、大抵はそのご利益らしきものが、実生活にフィードバックされずに奉仕活動の場が辛い日常からの逃避場所となります。

その結果、奉仕活動、宗教活動と実生活との間に分断が起こり始めます。

加えて奉仕活動の延長線上で、宗教の修行の段階と称してその宗教の特別な資格を取ったり、ますます重要な奉仕ができるとやる気を出してそこに身を捧げていき、やがてその中で生きようとして家族との関係にひずみが生じ、不和や離別をしてしまいます。

そこまでしたのにも関わらず、もともとは奉仕活動ですから、経済的に困窮し始めると、奉仕の仲間もやがては離れていき、今は孤独な日常を送っているというケースもあります。その時になって家族の大切さを思ってみても、修復できない状態になっています。

次に後ろ向きの動機としては、霊障や因縁・祟りや前世の報いがあります。

 

縛りつける霊障や因縁・祟りの恐怖

「教えを捨てると地獄に落ちる」「罰があたる、不幸になる」「脱会すると不幸になる、事故にあう」など霊とたたりの恐怖に縛られています。そのような祟りの恐怖は、信じない人にとっては馬鹿げたことになるのですが、信じる人にとっては真実として受け止めて恐怖心が膨らみます。教団をやめたらこのような霊障が起こった、病状が悪化したという実例談が心に残っていて、教団から外に出ることに対しての縛りがかかっている状態です。

霊感商法などの奉仕活動のために家庭が仕事を捨ててまで打ち込む人がいるのは、この恐怖に縛られて洗脳されているからに他なりません。

 

布教・伝道活動への疑問

この宗教・教えを広めるための聖なる働きに就いている、意義ある働きをしているという自覚があることを生きがい、やり甲斐として生きてきた自分。その自分が今、実生活の面での困難に出会っている、「そういう困難の時期も志を貫けるのかを神様に試されているのだ」とか「布教することは最も功徳があることだ」「そのことをまずやることで他の全てのことは良くなっていく」と言われ、自分自身を鼓舞してみてはいるものの、自分の教団生活とは別の、実生活という部分の人生を振り返ってみると、これから布教・伝道する人に対して、この私のような人生が、目指す人生ですよと、自分の人生を示すことができる人生なのか?と様々な疑問が沸いてくる時期です。

また実際に布教活動に際しても、多くの人を救うためという建前は立ててあっても、結局は教団の維持・拡大活動の歯車であり、広報宣伝でしかなく、営業会社並みに勧誘人数の目標設定をして、教団内の他の支部と競い合わせている実態。相手の都合や想いを聞くことも現在の状況にも関心を払うこともなく、勧誘の成績を上げることにお尻を叩かれて、教団内での表彰というご褒美によって立場が上がることを夢見ている自分。知らずしらずのうちに教団のレールのようなもに乗せられて活動してはいるが、もともと自分は何を望んでいて、どうしたかったのか、という原点を改めて見つめなおす時期です。

 

あきらめて続けるか、それとも脱会か

一人で部屋にいる時に鏡に映った自分の顔を見てみましょう。
教団にいる時に対外的に繕う表情ではなくて、自分自身の本当の素の表情になって鏡に映してみましょう。
その顔は穏やかさと安らぎがあり、幸せそうに輝いていますか?
心が充実感に満ちて、目はイキイキとしていますか?
普通にしているつもりでも微笑みの表情になってしまうでしょうか?
それとも何か寂しそうな目なざしや疲れた表情になっていませんか?
教義や教えのことを脇においたとしたら、どんな言葉が心の中から湧き出てくるでしょう?

そもそも宗教と教団が教えていること、謳い文句にしているような救いがあってのこの状態なのか?
入信前の苦しみ悩みが今現在は解決・解消されているのか?

それが成されていないなら、成されていないまま、他人に教えを広めて「良くなります」と言うこと自体に罪はないのか?
と自分自身に問いかけることは、最も基本的であり本質的な問いになると思います。

 

(この文章は著作権によって保護されており、無断転載を禁じます)

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