このページでは、「なぜ主導権を明け渡してしまうのか?」「どういうプロセスで心の中の依存心が拡大され、主導権を明け渡すに至るのか?」について考察していきます。

 

「自律の意志」の成長が鍵

まず一般的に赤子の「依存」 の状態から成長するに従って、できることが増えていき、植物が地中から芽を吹き幹が伸びるように、心の大地から「自律の意志」が芽を吹き、徐々に育っていきます。「自律の意志」とは自分の人生を築いていくための大切な心のエネルギー源のことを指します。

この「自律の意志」は、具体的には自分の望みに従って、自分自身でできることを自分で判断し行動し制御すること、望みに従って情報を主体的に取捨選択をして取り込むことをしていきます。そして、この「自律の意志」は徐々に成長していき、何もできない赤子の「依存」の状態から自立させ、やがて自分の人生を構築する7つの領域の各分野に対して主導権を持ってエネルギーを注ぎ込み「私的充実」の状態へと向かわせます。(図3-1)

 

(図3-1)

「私的充実」へ向かうのは自然な流れ

この「私的充実」に至るまでには突破しなければならない壁と、くぐらなければならない門がありますが、詳しくは「依存で始まる人生の3段階」をごらんください。

そして、「私的充実」に至ると、依存心を掻き分けて自律の意志が前面に出て働く状態となり、自分の手で自分の人生を創造していくことに、歓びを感じるようになります。心の中にある依存心が全く無くなったというわけではなく、状況によっては依存心が前面に立つ場合もありますが、これが人生の成長の第二段階である「私的充実」の状態ですです。(図3ー2)

(図3-2)

人生を構築する7つの領域

7つの領域の中心部には「人生を構築する自律の意志」とありますが、上図のようにこれは心の深い部分、生命力の源から立ち上る柱であり中心軸です。

この中心軸・エネルギーの柱から自分の価値観の優先順位に従って、人生の各分野に主導権を持ってエネルギーを注ぎ込んで、自分の人生を作り上げていきます。(図3ー3)

(図3-3)

「人生を構築する自律の意志」の柱の周辺には「主導権の範囲」とありますが、「主導権を持つ」とは自分を含めた周辺環境に主体的に働きかけること、また周辺環境から受け取ることを「自分の意志と判断」で主体的に取捨選択していくことです。

 

宗教依存症の人生の7つの領域

まず、一般の7つの領域の図と大きく違うのは、中心領域にある心が「自律の意志」から「偽りの托心」へと変わっていることと、主導権の範囲が宗教教団の意志に取って替えられていることです。

 

(図3-4)

ではなぜ、そのように「偽りの托心」というものになってしまうのか。そもそも「偽りの托心」とは何なのでしょうか?

「健全な宗教性になるには」の記事においては、次のように解説しています。
<私たちの心には「依存心」と「人生を構築する自律の意志」の両方が存在しています。宗教団体の「宗教依存を生み出すシステム的な要素」に刺激されると、このうちの「依存心」の部分に「偽りの托心」が形成されて、「自律の意志」の成長を阻害していきます。次第に主導権が奪われ、7つの領域全てに悪影響が及び宗教依存症になっていきます。> 

「偽りの托心」はどのようにしてできるのか?

この「偽りの托心」は宗教団体の「宗教依存を生み出すシステム的な要素」に触れ、それに則りライフスタイルを作っていくに従って、依存心の部分に形成されていきます。そしてそれが「自律の意志」の上に乗り、出口を塞ぐ形で成長していきます。
 

宗教依存を生み出すシステム的な要素

「宗教依存を生み出すシステム的な要素」とは、宗教団体の集会や説法、講話・教義・しきたり・ルールなどの中にシステム的に組み込まれているもので、依存心に働きかけて宗教依存症になるための原因的な要素になるものです。下図(図3-4)にある、本人に流れ込む4つの要素が代表的なものです。4つの要素とは左側の「崇める対象」「支配と褒賞」「罰への怖れ」「教団内道徳観」です。そしてこれがきっかけとなって右側の「盲目的服従」「飾られた使命感」「妄想的因果観」「強迫的な反復継続」が関連して引き出され、教団内コミュニティなどから本人に流れ込み感化されていきます。

この「宗教依存を生み出すシステム的な要素」は、自律の意志ではなく「依存心」に働きかけるのが特徴です。まずは「依存心」あるがゆえに「崇める対象」を受け入れ、図の右側にある「盲目的服従」状態になります。そして崇める対象によってもたらされる「支配と褒章」を受け入れて「飾られた使命感」を抱くようになります。続いて「崇める対象」や「支配と褒賞」を拒絶した場合にもたらされる罰を教義や具体的事例などを通して聞くことによって受け入れていき、それによって怖れを中心とした「妄想的因果観」が形成されていきます。そして最後に褒章を受け、罰を避ける生き方を定める「教団内道徳観」に従うことを受け入れてゆき、それによって、信者の心と行動の姿勢が「強迫的反復継続」となっていき心に定着していきます。

布教活動を例にあげれば、盲目的に服従をきめた崇める対象からの褒章(ほうび)に彩られ「飾られた使命感」を帯びて意欲的になっていけばいくほど、一方でそうはできなかった時に対する「罰への怖れ」が自責や劣等感として潜在的に生じ「妄想的因果観」が心の中に渦巻くようになります。そしてこれらの「宗教依存を生み出すシステム的な要素」の全てを肯定的な「教団内道徳観」として遵守してことを求められるので「強迫的反復継続」の習慣がついていきます。

この「受け入れる」ことと「そこから導き出される心と行動の習慣」の全てがセットとなって「偽りの托心」として心の中に蓄積されていくことになります。「偽りの托心」は依存心に働きかけて作られるがゆえに「自律の意志」の出口にどっかりと重石のように蓋をして塞いでしまいます。

 

(図3-5)

「偽りの托心」ができると不自然に見える

「偽りの托心」を底辺で支えているのは「自律の意志」なので、あたかも自分の意志でその宗教を信じて布教活動や奉仕活動をしているように自分自身でも思ってしまいますが、それはあくまで「依存心」に形成された「偽りの托心」という部分で、そう思い判断し行動しているにすぎません。

宗教、特に新興宗教を熱心に信仰している人が、その宗教の良さや教義などを語るのを聞くと、どこか「不自然」で「偏った」印象を受ける時があります。どんなに素晴らしいことを唱えていて、それなりに振舞っていたとしても、どこか本来のその人ではないような違和感を感じる瞬間です。どうしてそのように感じるのかの理由は、宗教団体によって作られた心によって語り、「偽りの托心」が作り出した心の世界の中で生きているから、そのように感じてしまうわけです。

また、救われたことを語るその背後で、実は多くの悩みを抱えていて表情にそれが現れている、実は家族や経済的、人間関係に多くの齟齬ができていて苦しんでいる実態があるために、語っていることに不信感を覚えるためです。

なぜ主導権を明け渡すのか?

主導権を奪うのが、依存心に作られた「偽りの托心」であることがわかったとして、それでは、なぜ本来の「自律の意志」があるにもかかわらず、主導権を明け渡してしまうのか、「偽りの托心」が作られることを許してしまうのでしょうか?

私たちの人生に起こる出来事や事件、困難は本人にとっては、いつどういう理由で起こるかわからないものが多いものです。まさに一瞬先は闇という言葉通り、どんなことも起こりうるのが人生です。それに対して全く無力な赤子の存在として、人生をはじめざるを得ない私たちは、この人生を生きることに対する根源的な不安というものがあります。

「自律の意志」というものは、そのような根源的な不安から依存心を抱かざるを得ない私たちの意識を掻き分けて生まれてくる生命力のエネルギーです。意志という言葉の中には「志(こころざし)」という言葉が入っています。意志とは自分の志すもの、何らかの目的とするものを「得る」「実現する」「達成する」ために具体的な行動を起こす前の意向・意図を表します。そして「自律」とは、そのために自分自身をコントロール・制御していくことを指します。

それに対して赤子の意識である依存心は、極端に言えば「黙っていても叶えられて当然、理解されて当然、愛されて当然、困っていたら助けられて当然」という意識です。つまり自律の意志は依存心と戦いながら育ってくると言っていいでしょう。自律の意志は依存心と戦いながらも、「私的充実」へ至るための壁を突破し、「私的充実」への門をくぐるという試練を経なければなりません。人生の三段階のうちの二番目である「私的充実」へ至るだけでも叶えておられる人は限られてくるかと思います。

なぜなら依存心の「黙っていても叶えられて当然、理解されて当然、愛されて当然、困っていたら助けられて当然」とする意識が未成熟なまま世界・社会に関わるならば、怒り、不満、葛藤など様々な感情的苦しみを持つのは必然と言えます。その試練をバネとしたり、試練の意味を自分の中にうまく消化して「自律の意志」の成長を促進させる人と感情的苦しみや葛藤に呑み込まれて「自律の意志」を潰したり投げ出したりする人に分かれていくからです。

そのような人生に起こる厳しい試練に「自律の意志」も萎え、苦しみを抱えた私たちが出会うのが、宗教の神であり教祖です。その神であり神の代理人である教祖の出現によって、まず感情的な苦しみが癒されます。正確に言うと癒される期待値が高まります。全能の神であり、その神の言葉を告げる代理人である教祖は「黙っていても理解され、愛され、困っていたら助けてくれる」存在として依存心に起きた葛藤を癒そうとするのです。黙っていても愛してくれる魂の親であり、肉親の親よりも大きな存在として、心を占めていきます。

ここまでは、個人の心の再生のためには効果があるものですが、その後に本人の「自律の意志」を立ち直らせて、自律の意志の底からその人固有の目的を引き出して天命を悟らせ、第三段階の「真の托身」と「公的充実」の段階へと、その人を導くことを願い、そのための智慧の支援ができる宗教と、「宗教依存を生み出すシステム的な要素」を吸収させて、教団の一つの歯車としてしまう宗教に分かれることになります。

「自律の意志」が立っていて既に「私的充実」に至っている人ならば、「宗教依存を生み出すシステム的な要素」が多くある宗教には見向きもしないでしょうし、惹かれるとすれば「公的充実」へ至るための智慧の支援ができる宗教に惹かれることになるでしょう。

逆に依存心を多く残し、苦難を背負って感情的苦しみにある人は、「公的充実」へ至るための知恵の支援ができる宗教よりも「宗教依存を生み出すシステム的な要素」が多くある宗教の方に惹かれて依存心を満足させようとするでしょう。

 

Point
①「宗教依存を生み出すシステム的な要素」は「依存心」に働きかけて、心の中に「偽りの托心」が作られる。

②「偽りの托心」は本来の「自律の意志」の成長を妨げるために、人生の7領域を充実させる主導権を教祖と宗教団体に明け渡してしまう。

(このサイトの宗教依存症に関する理論はRCラボオリジナルです。文章は著作権法で保護されており、無断転載・流用等を禁じます)

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