これは依存症全体に言えることですが、依存症には薬物依存症なら薬物、アルコール依存症ならアルコールというように当然ながら依存する対象があるわけです。

しかしアルコールを飲む人がすべてアルコール依存症になるわけではないように、宗教に関わる人が、すべて宗教依存症になっているということではありません。

ではどのようにして宗教依存症はできるのかといいますと、下図(図1-1)にありますように、本人の中にある「依存症になる心理的な要素」と宗教の教義や組織などにある「宗教依存を生み出すシステム的な要素」との重なった部分に宗教依存ができます。

(図1-1)

「依存症の心理的な要素」は、誰の心の中にも若干はあるものなのですが、この「依存症の心理的な要素」が、本人の心の中で相当な割合を占めている場合、宗教依存になる確率が高くなります。また宗教団体の方にも「宗教依存を生み出すシステム的な要素」がどんな宗教にも多少はありますが、その割合が高い場合も宗教依存症を生み出す可能性が高くなります。

 

そして、本人と宗教の間に宗教依存が出来上がりますと、本人の中にある「依存症の心理的要素」が刺激されて、二者の間の距離が狭まっていきます。この「距離」とは具体的にその宗教の教義や団体、行事に接する頻度や心理的距離間を指しますが、この距離が狭まると同時に宗教依存は拡大し、本人の中で占める割合が大きくなります。(図1-2)

 

(図1-2)

 距離が狭まるというと、互いに引き合って狭まるようにとらえがちですが、宗教団体の方が本人に近寄っていく時は信者獲得の時であり、それはシステム的な要素になります。そしてそれに繰り返し接する本人の中には、依存的に求める衝動が起きてくると、今度は「本人」の方から宗教に近寄っていくことになります。

 

本人の「依存症の心理的要素」が少なくても・・・

カルト宗教と言われるような宗教依存を生み出す教義やシステム的な要素が高い教団の場合は、巧みに近寄り、取り込んでいきますが、本人の中に「依存症の心理的要素」が少ないと、接する段階でその教団の教義や風土、独自の慣習に対して違和感を覚えますので、その段階で遠ざかることができます。(図1-3)

 

(図1-3)

しかし、その違和感を超えさせるものをカルト的な教団も持っていますので、距離が狭まり一旦宗教依存症になってしまうと、完全に取り込まれる形で宗教依存症も拡大することになります。(図1-4)

 

(図1-4)

取り込まれてしまうと「依存症の心理的要素」が刺激されて、宗教依存症が拡大します。これは全財産をすべて教団に寄付をして路頭に迷ったり、また教団施設で寝泊まりしながら奉仕活動をするようなカルト教団に見られる信者の姿になります。最終的にはその宗教教団の為なら反社会的な活動も厭わないような精神状態となります。(図1-5)

(図1-5)

本人の中にある「依存症の心理的要素」が少ない状態でも、関わる宗教団体において「宗教依存を生み出すシステム的な要素」が多い場合には、宗教依存になる可能性があることを示しました。しかし、その際には、それに至るまでに本人の中に違和感が生じるので、その段階で遠ざかることができれば、宗教依存症にはなりません。

しかし、本人の中にある「依存症の心理的要素」が多い場合には、違和感もなく容易に取り込まれて「宗教依存」となってしまいます。

教団側の「システム的な要素」が少ない場合

次に本人の中にある「依存症の心理的要素」が多く、宗教教団側にも「宗教依存を生み出すシステム的な要素」も多い場合には、違和感もなく容易に取り込まれて「宗教依存」となってしまいます。

しかし、宗教教団側に「宗教依存を生み出すシステム的な要素が少ない場合」は、依存症の心理的な要素が適度に抑えられ、「自律的な精神や生活」を表面的には作っていくことができます。しかし、「宗教依存を生み出すシステム的な要素」に触れていくに従って宗教依存症としての心理を生み出していきます。(図1-6)

 

(図1-6)

宗教依存以外の部分にある「依存症の心理的な要素」はなんら縮小したり、消失したわけではありません。宗教依存を核として、それに刺激された依存心は、表面的な「自律的な精神や生活」の背後でうごめくことになります。(図1-7)

(図1-7)

宗教教義の中で推奨される心の持ち方や生活の在り方など、表面的に自律的な精神や生活の背後でうごめく満たされない依存心は、時に他のアルコール依存症をはじめ、セックス、ギャンブル、薬物、ニコチン依存症などとして、隠れた発症につながることがあります。聖職者の性犯罪などもこれにあたります。

 

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