依存症の中には、「関係依存」と「プロセス依存」そして「物質依存」の三種類があります。(依存症の3つのタイプ)

宗教依存症の中には、この内の「関係依存」「プロセス依存」の側面があると思います。(物質依存については、例えばアルコール依存や薬物依存など、その物質そのものに依存症になる誘因効果があり、脳のドーパミンを出す物質的な効果があるのですが、宗教に関して言えば、例えば仏壇やその教団のネックレス、お札などが必ずしもその効果があるわけではないので、物質依存にはならないと考えます。)それぞれに具体的に何に対しての依存かということを下記に記載していますので、ご覧ください。


宗教依存症の2つの側面・・・何に依存するのか?

神仏・教祖・教団(コミュニティ)⇒ 関係依存

修練・行・セミナー・奉仕  ⇒ プロセス依存

(リリースカウンセリングラボラトリー)

 

宗教依存症における<関係依存>

一般的に関係依存というと、人に対する依存を指します。その意味で、宗教依存症においての対人依存は「教祖」あるいは「同じ宗教団体内の人達」となります。

しかし、宗教依存症において特殊なのは、その宗教における特定の「神仏」なども依存対象となります。

依存を簡単に言えば「頼る」ということです。それもただ単に頼るというよりは「しがみつく」という表現が当てはまります。自分の人生の中での困難や苦しさから入信したという方が多いために「頼り、しがみつく」という心理的な態度はよく理解できます。

神仏・教祖・教団内の人間との関係

神仏

神仏といってもどちらかといえば、「人」をイメージできる神仏に対するものに依存が多いように思います。反対に「大宇宙そのものが神である」とか、「宇宙に遍満するエネルギーが神である」「地水火風すべてが神の表現である」とかいう神には依存はあまりないようです。「人」をイメージできるというのは、言葉を用いてメッセージや教えを与えている神や、何らかの奇跡や現象を起こすように思わせるもの、キリスト教系の神や、霊媒などの口を借りて降りてくる◯◯の神、天使、守護霊等々があります。

 

神が物言わぬ法則的なものであるとするならば、法則に則るか、それに背くか(信じる、信じない)は自らの自由意志で決めることになります。しかし、法則的なもの以上に人格的な要素を神に見るということは、神に対して、人間と同じく、思考、感情、意志、行動があると見ていることになります。そうすると、自分自身の思考、感情、意志、行動のパターンを神に投影することになります。つまり「神の愛」と言いながらも所詮は、狭量な方は狭量な神を、怒りっぽい方は怒りっぽい神を自分の心の中に想定して、自分自身をがんじがらめにしていきます。「神の怒り」「神様の罰が当たる」などという表現はそれを表しています。これは信仰をして心が不自由になる理由の一つです。

 

〇〇の神が何らかの奇跡や天罰、天変地異をもたらすような存在であると、そこの宗教で教えているならば、あなたは「神様は最も強い力で私の生殺与奪の権を握っている」という一つの暗黙のメッセージを受け取っています。一般的に支配的なメッセージを受け取れば、依存か反発かの心理的な態度が生じますが、反発しても敵わないと思えば依存の心理的な態度をとるようになります。

 

「支配と依存」「褒章と恐怖」はセットになっていますので、神の支配的なメッセージを受け取れば受け取るほど、自らは依存的な心理的態度を深めていきます。しかし、宗教では、神に対する従順な姿勢は奨励され、その姿勢が同じ宗教団体内でも評価や承認を受けるとなると、自分自身の社会的態度としてもそれは定着していくことになります。これは「信仰によってあの人は変わった」と言われる理由でもあります。

 

教祖

次に、教祖は「生き神様」のような存在であればあるほど、依存の対象となりやすいようです。カリスマ的であり、神通力や霊能力を備えているといわれる方が多いですが、神よりも実は教祖の影響が圧倒的に多いのは、神に人格的な要素を見出したとしても目に見えず、言葉を聞くことができないのに対して、教祖は同じ人として、姿形、表情、声、態度、まなざしなどが見れて、聞けて、話すことができるからでしょう。普通の人間関係ならば、聞き逃したり、気にも留めないような言葉や話でも大きく自分自身の心に響き感動したり、まなざしや態度に一喜一憂し、握手一つでも感激するようになるのは、神の代弁者として神を背負っている、あるいは教祖に「神」のレッテルを貼っているからに他なりません。

 

このように神仏や教祖に対する信奉は依存症が強ければ強いほど深くなり、それが社会生活や家庭生活の原点となり占めていきます。また、依存症の方は縦の人間関係をより意識しますが、宗教団体の組織内のヒエラルキー(階層)へのこだわりや囚われによって、心が縛られてしまいます。

一般社会における会社組織に例えると、ピラミッドの上から社長、部長、課長と役職があり一番下の平社員になるわけですが、そこでの上下関係を強く意識しているのと同じです。そして、一般的にこの会社組織の階層を登っていくと上の階層に行くに従って、権限が増えるのと同時に責任も重くなりますが、収入は増え、社会的地位が上がっていきます。ですので、上を目指す動機は収入であり、生活の安定であり、地位や名声もあるでしょう。あるいはその人なりの夢や何かの野望などなのかもしれません。とにかく、動機はその周辺にあるように思います。

しかしこれが宗教団体の組織においては専従職員ならば別でしょうが、一般信者の間では動機が違ってきます。新興宗教の団体組織における階層の相当な部分を信者によるボランティアが占めて、その働きを担っているところが多いようです。信者のボランティアは移動費や活動のほとんどの部分を無償で行い、それが組織内では奨励され、逆にそれができない人は居心地の悪い組織内の風土を作っています。

それでも依存症の信者が熱心に活動を続ける目的は、会社のように経済的に収入を増やし、生活の質を向上させる、地位や名誉を得るというものではなく、求めるものはお金や社会的地位などではありません。では依存症の方は何を動機としているかといえば、それは神仏・教祖からの承認と見えない世界(あの世など)での序列です。

依存症の方はもともと自己肯定感が低く、自分自身の心の中に満たされない欠乏感や孤独感をもっていますので、それを埋めるように神の承認や愛を求めて神(教祖)に近づこうとして働きます。しかし、認められることを動機として求めるなら、見捨てられることの恐怖がその背後で拡大していくことに気づいていません。神の世界やグループからつまはじきになることを何よりも恐怖するようになります。承認を求めると同時に見捨てられる恐怖心は、さらなる活動へ駆り立てていき、まさにしがみつき状態になる宗教依存症となります。

本人はその動機には無自覚なので、これは教義に則った意義あることをしているのだと使命感をもって、ひたすら教団で定められたことに則り、金銭を払って教団の行事に積極的に参加をし奉仕活動を行います。そのことを通して副次的にご利益として生活の改善が行われると信じているのですが、残念ながら依存症の方は経済的に困窮しだし、家庭生活にもひずみが出て瓦解することになってしまいます。

 

教団内の人間関係(コミュニティ)

私たちの悩みの大部分は人間関係の悩みと言ってもよいでしょう。アドラー心理学では、「すべての悩みは人間関係である」と言い切っています。それほど、人間関係の歪みやそれにまつわる感情的な問題を抱えている人は多いのですが、依存症の方も、成育過程や社会的な人間関係でのストレスや心の痛みを抱えていることに違いはありません。私たちは人間関係を通して傷つき、また人間関係によって癒される存在です。

宗教のその教義をただ座学で学ぶだけならば、宗教依存症にはならないのかもしれません。本で読んだだけで、すぐさま宗教依存症になるほどのめり込んで社会生活に支障をきたす人は少ないのではないでしょうか?

そこに教祖が居て、教団というコミュニティ、人間関係があって、のめり込んでいくものです。カルト教団であっても、当初その勧誘や教義に違和感などがあったとしても、関わるその人や教団内のコミュニティの人達が親切で優しく、自分の悩みなどを聞いてくれる姿に「こんなにいい人たちの言うことなら間違ってないんじゃないか」と入信するケースが多いようです

一つの宗教を誰とも関わらずに座学で学ぶのは、学問として興味があり学ぶなら別ですが、心や魂の救い、悩みの解消などを求める人にとっては、難しく物足りないものです。教団内のコミュニティにおいて人間関係を持ちながら学んでいくことは、お互いに教えあい、相談しあい、励ましあって歩んでいくので、学びの促進にもなりますし、人間的な関わりにおいて癒しやはげみになることは多いと思います。

その教団が依存を引き出して信者を食い物にしたり利用するのではなく、高い精神性と智慧を備えているならば、健全な宗教性となって、その方の人生を豊かで調和されたものに導いていくことでしょうし、その教団のコミュニテイーはそのような風土や慣習を備えていることでしょう。そうすると、そこに関わることはその人にとってメリットの多いものになるはずです。

問題となるのは逆のパターンであり、親切そうな関わりも歓迎も、全ては教団のためにというスタンスで、その人の依存心を引き出すような教義を洗脳もどきのシステムに乗せて引き込んでしまうようなところは、信者の人生の苦しみに拍車をかけてしまうことでしょう。そうした場合に教団のコミュニティはその人にとって手かせ足かせのように、逃れることができないものとなります。

 

 

宗教依存症における<プロセス依存>

プロセス依存というと、そのプロセス、行為に依存していくことです。ギャンブル依存ならそのギャンブルをするという行為に、買い物依存なら買い物をするという行為に依存していきます。同様に仕事依存、スマホ・ゲーム依存などのオタク的な依存、セックス依存などがあります。その原因や心理には、ストレスやうつ気分を晴らそうとしてその行為にのめりこむなどありますが、詳しくは別の項目で探求したいと思います。

では宗教依存症としてのプロセス依存の要素にはどのようなものがあるでしょうか?

祈り・読経

祈りや読経の種類や言葉などは、各宗教によって様々にあります。その言葉や意味を深く自身の心に刻印したり、感謝を捧げるためにという目的から始まって、大いなる存在や超自然的な力と一体になるためにというような、自分の育みから始まってやがて大悟へ至ることを志向している祈り。あるいはスピリチュアル的な世界を探訪する、または霊能力や超感覚的な知覚を発現させるためにという精神世界探訪のためにというものもあります。

ただ依存症の人の祈りや読経は、理由付けは色々あったとしても、その根本において「お願い事を神様に聞き入れて叶えてもらうことをひたすら求めて一心不乱に祈り・読経する」という態度になります。その依存心あるがゆえに、自分の中の欠乏感や空虚感を穴埋めするために祈ります。そして依存心ゆえに起こる恐怖心や不安感が後押しとなってその行為をやめることができません。一見、熱心に求道心でやっていることと見分けがつかないのですが、これは祈りや読経そのものがプロセス依存とも呼べるものになります。

依存心からの祈りの誤解

私たちが住み暮らしているこの世界というのは、縦横高さがある(3次元)の世界であり、全てが具体的・相対的に関わりあい、物事が進んでいく世界です。例としては最も身近かな私たちのこの肉体がそのことを顕わしています。

私たちの肉体は、食事を通して体内に食物を取り入れて消化・吸収し排泄に至るまでの仕組みがあり、それを通して新陳代謝をして肉体が保持されて活動できます。呼吸にしてもそうですが、酸素を取り入れて二酸化炭素を排出して生命維持をすることができます。つまり、外部のものを取り入れて異化と同化を繰り返し、初めて個を維持することができる仕組みになっています。単独そのもので何の影響もうけずに存在をし続けることはできません。

Key Point
私たちはすべてが具体的に関わりあい、影響しあいながら物事が進み、成就していく世界に住んでいる。

これはあまりにも当然なことなのですが、精神世界にのみ住んでいる、または依存症となり現実逃避になってしまう人が、無視してしまう原則です。

 

<物事を成就する一般的なプロセス>

上記のKey Point(原則)を踏まえた上で、一般的に物事を具体化したり、成就させたりするためには、これが全てというわけではありませんが、次のような要素があり、そのためのステップがあります。(図2-1)難しいようですが、これは誰もが物事を成すときにごく自然に行っているものです。

 

(図2-1)

このうちの①~③の願い・ビジョン・立案までが、個人の心、内面の中で生まれるものです。願いとは、今の現状を捉えて、自分の希望する未来の積極的な実現を願うことがあるでしょうし、また今の現状が負の現実ばかりであったとしたら、今よりも、より良い方向にしていきたいと願うこともあるでしょう。逆に理不尽さに怒りが収まらず復讐したいと願い、そのビジョンを描いて立案することもあるかもしれません。

どのようなことを願い、ビジョンを立てて立案するのも自由ですが、調和的な未来を願えば、周囲に喜びと調和をもたらし、自分に返ってくる可能性があり、恨みや怒りで願い、ビジョンを描くならば、破壊・混乱・遺恨を起こす事態を招くことが十分考えられることですから、この①願い・②ビジョン・③立案の部分は、それを生み出す人間の内面の充実・調和の度合いが大切になってくるところです。

自分自身の思考・感情・行動の自己覚知(自分にはどのような信念や思い込み、傾向があるかを自分で知っていること)と言われるものが十分あることが求められます。その意味で、ここの部分は物事の実現や創造に対しての基本的な部分であると共に、具体的な実行計画以上に大切な部分です。

 

<内的努力を生み出す自己を育むための祈り>

この①願い②ビジョン③立案を内的努力によって生み出すにあたって、自己の調和的な育みが必要であるのですが、それは高い精神性であったり、愛や貢献心というものであります。その「自己になる」目的にこそ、心を育むために祈るということは有益なものとなります。(図2-2)

 

(図2-2)

<人的努力を省いてしまう依存症の祈り>

それに対して宗教依存症の祈りはどのようになるかといいますと、全てにおいて「願い事を神様にお願いして叶えてもらう」ことを前提として、感謝をし、懺悔をし、許しを請うわけです。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、「人事を尽くさず願い事がかなうのを待つ」というのが依存症の祈りであるといえます。

そしてそのような心の構えから生み出されるのは、心の深い部分から立ち上るどうしても果たさずにはいられない①願い②ビジョンというよりも、その場の思いつきや功利心や恐怖心、空想、妄想を基いとして、こうならないか、ああならないか、こうならないように、ああならないようにと立案し、その実現を神様にお願いします。

つまり、人間的努力にエネルギーを払う気構えがみなぎるというよりも、その人的努力も払わずに神頼みになってしまうわけです。本来ならば人的努力に割く必要のある時間であっても、祈りや読経に多くの時間や回数をかけてしまいます。(図2-3)

 

(図2-3)

本来ならば、内面の充実から生まれた立案とその実現を図るための人的努力などの全てを神頼みにしてしまうために、実行に際しての工夫や実行結果の検証による智慧の蓄積など何もありません。そしてそれがないために、実現化の手ごたえも確信も得られるものがありません。

依存症の祈りは、祈りや読経をすることで願いがかなえられると信じてするわけですが、それを明確に証明する形で受け取れるわけではないので、物事がうまく進んだとしたら、その原因なども検証しないままに「神様のおかげ、祈りが届いたおかげ」と言い、何の進展も得られない時には「本来なら大きな災いがかかるはずだったのに、祈ったからこの程度で済んだ」と信じようとします。

これは信じているというよりも、心には何の確証も得られていないことを自覚したくないために、または自覚することは不信心だと思うことから、まさに「そのように信じよう」としている言葉なのです。

<瞑想状態の効果>

瞑想状態というと静かに座して瞑目するイメージがありますが、サマタ瞑想という集中型の瞑想では、じっと一点を見つめたり、音楽に集中して踊ったりなど、ある一定の行為に集中することで瞑想状態を作ります。同様に単調なリズムで繰り返し読経するのは、その行為自体が瞑想状態や変性意識に誘う効果があります。一心に読経をして悩み事が晴れたとするならば、それはそのお経のご利益と思ってしまいがちですが、本当はその行為の瞑想効果と言えるものです。

しかし、「これはこのお経のご利益だ」と驚きと共に信じ込むことで、悩みが晴れる意識モードに持っていくことができるのも本当です。その意識モードになるように、このような思い込みと共にお経をあげるという行為がセットとして設定することを、アンカーを入れるといいます。

ただし、自己覚知(自分にはどのような信念や思い込み、心の傾向があるかを自覚していること)をせず、自分の感情の処理やコントロールができていないままにそのような瞑想状態に入ることを繰り返すと、未処理の感情が深まって根付いてしまうということもあります。

最初は読経で心が晴れたという効果があったとしても、ある思い込みだけが深まって、感情の暴流や落ち込みが根付いたりしてしまいます。しかし、お経のご利益を一旦信じてしまいましたから、心が晴れる効果が少なくなると「これはおかしい、信心が足りないせいだ」と未解決な心の問題や悩み事を抱えたまま読経の回数や時間を増やしていきます。

ちょうど薬物依存のように、最初は効いていた効果が薄れて(これは薬剤に対する耐性ができるからですが)その量がだんだんと増えていくことに似ています。そうすると、「一生懸命信心して読経もしているのに最近変なんです」と本人やパートナーからの相談となります。一旦それをやめることができるか聞くと、やめることに関する罪悪感や恐怖感などの心理的なブロックがかかっていて、やめるにやめられない状態になっているケースがあります。

 

セミナー・研修会

セミナーの内容が、日常生活の中で実践できる内容で、習得するスキルがあり学習型のカリキュラムである場合は良いのですが、自己啓発セミナーの要素を取り入れたセミナーがあります。

非日常体験のセミナー

自己啓発セミナー型の宗教などは、大きな声を出して感情を解放したり、その宗教の教えの言葉を声高に一斉に唱和したり、手を繋ぎあって連帯感や一体感を高めたりする効果があるワークやゲームを、信仰心と結びつけて信者の高揚感を高めたりするセミナーです。

セミナーに参加して感動体験をし、気分も高揚して普段は暗くモチベーションが下がりがちな人が、明るく元気にイキイキとした表情になります。反面、日常生活に戻るとまた日々の生活に流され、仕事の多忙さや家族や人間関係によるストレスから意識のテンションが下がってしまって元通りというのはよくある話です。つまりセミナーに行っている間だけは良い気分の状態になれ、日常に戻ると下がるということです。

そういうセミナーの時と場は日常の延長線上にあるわけではなく、非日常感覚に満たされている場であり時間です。日常の様々な制約を外して感情を解放する体験は、本人の中に心地よい感覚として強く残ります。

同じように日常の忙しさやストレスから解放されるために旅行に行く人も多いですが、旅行とセミナーの違いはどういうところにあるのでしょう。

旅行の場合は、気のおけない友人や家族と共に、楽しい会話や観光や宿泊、食事や飲酒を楽しんで日々のストレスを忘れ去り、リフレッシュする効果があります。外向的に新たな体験を重ねていくのが旅行の良さであります。

それに対して自己啓発セミナーの体験は、人間の心理の中にある前提や信念、思い込みを生み出す元である認知の仕組みを変えたり、本人への問いかけを通して、その信念や思い込みを突き崩すようなワークをしていく体験をします。「自分が変わる」意識の変容を体験させようとするものです。つまり内向的に新たな体験をしていくのが自己啓発セミナーということになります。

そのセミナーで体験した感情や一体感に加えて、教団が掲げる使命感が忘れられなくて、家計を顧みずに高額なセミナーに参加し続けて、家族関係が悪化して、ひどい場合には離散のきっかけになるケースもあります。

 

奉仕

奉仕活動は信者にとっては、自分を高める修行の一環として行います。世間一般のボランティアとの違いは、教義に基づいた活動と信じて実践している点にあります。

教団組織の維持的活動

奉仕は教団の組織の維持的活動をする奉仕と、教団として定めている社会奉仕活動に参加する奉仕があります。組織の維持的活動においては、ボランティアであっても役職があり、教団によっては同じ信者に対する資格審査ができる権限が与えられるなど、教団維持のための歯車となるものから教団拡大につながる広報としての布教活動をする奉仕などがあります。

組織の維持的活動では、その奉仕の働きのポストに恒常的に責任が生じるということで、恒常的に時間と労力を割いていくことを意味します。一般的に自分自身の生活を維持するために多くの労力と神経を使って初めて成り立つものであるならば、奉仕活動へどの程度、時間と手間ヒマをかけても問題ないかを測れるものです。

世間一般の奉仕活動ではそのバランスが取れるものですが、宗教教団の奉仕活動となると、宗教依存症の方は、自身の仕事や家庭生活よりも教団に軸足があることと、自分の生活を犠牲にしても奉仕するということが、精神性が高く信仰心が深いことにつながるという認識があり、そのバランスを失わせることにつながります。

宗教団体の社会貢献活動

一般信者がしている奉仕活動については、駅や道路など地域の清掃活動や河川や海岸などの美化活動などがあります。教団を上げて社会貢献・慈善活動をした一つに災害時のボランティア活動があり、東日本大震災の際には災害援助・支援を各々の教団を上げての活動をしていました。有名な宗教団体がそれぞれに義援金を送ったり、対策本部などを設置して現地被災者の援助として神社や寺院、宗教団体の建物を解放して避難場所や支援物資の集積所とし、炊き出しなど支援物資を提供しています。

また災害時以外の社会貢献活動としては、小・中・高等学校、大学、専門学校等の教育機関の経営や診療所、病院など医療機関の経営などがあります。しかし宗教団体によっては社会貢献活動を実施することを通じて諸々の関連が生まれ、その結果として政治活動に連動する可能性があるために、一般的な社会貢献活動はしないとしているところもあります。

そして宗教活動自体が社会貢献活動でもあるので、社会貢献活動を宗教活動に限定する、つまり布教や葬儀、霊的救済などの宗教活動こそが社会貢献活動であるとする認識をもっているところも多いです。

その一方で、 宗教者や宗教団体は宗教活動以外にも地域社会の活動や福祉活動に積極的に関わるべきであり、社会貢献活動と宗教活動を明確に分けるべきであるという意見を持っているところもあります。一概にその是非を論ずることはできませんが、それぞれの団体の考え方によって違っています。

 

(このサイトの宗教依存症に関する理論はRCラボオリジナルで、文章は著作権法で保護されており、無断転載・流用等を禁じます)

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